「―――電車が参ります。ご利用のお客様は、黄色い線の内側でお待ち下さい」
お決まりのアナウンスが流れたのを遠くに聞きながら、彼は簡単に黄色の線を跨ぎ、もう一歩踏み出せば線路へ落ちるところへ止まった。
利用客の少ないこの駅は、鉄道会社の不況のせいでつい数ヶ月前に無人駅になってしまい、事故を未然に防ごうと目を光らせている駅員は何処にもいない。
安全だと定められた線を越えた彼は、まさに死を覗き込んでいる。緑のヘイゼルの目が見据える線路はの上には無惨な死体でも転がっているのか、その顔色は酷く悪かった。
「何をしている」
彼の後ろから、抑揚のない口調で天使が言った。
そういえば先程電話で居場所を教えたのだった、と彼は思い出す。落ちこぼれ天使が文明機器を必死になっていじくり回す姿は想像しただけでも可笑しかった。
ばさ、と天使のトレンチコートが風で音を立てる。彼は振り返らず、だらしなくスーツを着込んだ天使を思い浮かべて、近づいてきた電車を見据えた。
もうすぐプラットホームを通過する凶悪な凶器。言い方に文句をつけなければ、ある種のフードプロセッサーだ。
天使はもう一度、何をしている、と言った。若干面倒臭く感じながらも、彼は答える。
「別に」
「私には飛び降りようとしているように見えた」
「…そうかもな」
「自殺はよくない」
「自殺なんかしない」
「君は電車に轢かれて平気ではないはずだ」
「そうだな」
「ならばそれは一般的に“飛び降り自殺”になるだろう」
「そうかもな」
至って真面目に言葉を紡ぐ天使とは対照的に、彼の答えはどこか他人事で、まるで予め決められた文章を朗読するかのような口調だった。
彼が黙り込むと、天使は彼の身体を少し後ろに引っ張る。彼が瞬きをしている間には、スピードを落としていない電車はホームに入ってきていて、吹き荒れた風が彼の髪を乱暴に撫でた。
そしてふと、先程あっさりと越えた黄色の線を踏んでいることに気付いた彼は、かえりたい、と願った。
「かえろう」
天使の言葉を聞いた彼は自分の心が読まれてしまったのかと考えた。けれど、すぐにそれを否定した。天使には読心術を禁止してあるし、もし仮にそれを破って心を読んだとしても、天使が簡単に“帰ろう”などと口にするはずがないと、彼は知っていたのだ。
彼がかえりたいと望む場所は、もうこの世界の何処にも存在しない。
「………そうだな。サムが待ってる」
彼はそう言って、ホームを背にした。
やっと振り返った彼の顔を見た天使は、いつものように無愛想な顔をして口を真一文字に引き結んでいる。
彼の手を離すと天使は慣れない手つきで携帯をいじった。彼が言ったように、彼を待っている弟に連絡を入れるつもりなのだろう。
天使が携帯を自分の耳元へ持っていった。天使は着信音が苦手なのか、ほんの少し顔をしかめている。
彼は、かえりたい、と小さな声で落とした。彼の願いは携帯の着信音のせいで天使には届かなかった。つまり、彼のそれを聞き届けられたものは、世界の何処にもいなかった。
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