やすりが爪を削る音。規則的なそれと穏やかな日差しも相まって、ダリルはまどろみの中にいた。うつらうつらとしながら、自分の爪が整えられていく様を視界に入れ、どうしてこうなったのかと考える。
(あれは、そう、リックに爪切りがないか聞いて…)
それは、ほんの30分前ほどのことだった。
狩りから帰ってきたダリルは、ふと指先に痛みを感じ、そこでやっと自分の爪が割れていることに気付いた。ボウガンを扱っている際にでも割れたのだろう。そういえば久しく爪を切っていなかった、と思い、すぐ側にいたリックに爪切りを持っているか声をかけた。
そうするとリックは何故か椅子を二つ用意して、座ってろ、と言った。特別することもなかったダリルは、リックの言うとおりに大人しくそこに腰を落ち着けた。リックの言葉は至極優しかったので、突っ撥ねるのは気が引けたのだった。
トレーラーに一度乗り込み、ダリルのもとへ戻ってきたリックの手にはチープなエメリーボードが握られていた。それを見たダリルが、まさか、と口にする前に彼の手はリックに握られていた。
(あと2本だ)
差し出した右手の、薬指と小指の爪はまだ伸びたまま残されている。たった今リックが薬指に移ったところなので、単純に計算してあと20分ほどはかかる。
リックによって丁寧に削られた親指から中指はそれなりに長さを整えられていて、しかしながら形は少々歪だった。リックの不器用さが滲む己の指先に可笑しくてダリルは口元を緩ませる。
気付いたリックが優しげな声で、どうした、と問いかけた。ダリルはリックの顔を見やったが、視線はちっとも交わらなかった。リックはダリルの指先に集中していた。
「あんた、自分の爪の手入れもしねぇくせに」
自分の爪を整えていくリックの爪が同じくらい伸びていることに気付いていたダリルは、まるでからかうような口調で言ってやった。
リックが笑った気配があって、ダリルは満足した。言葉を重ねるより、この静かで穏やかな空気を感じていたかったから、リックもそれを大事にしてくれているような気がして、なんだか嬉しくなった。
(爪切り持ってるくせに)
ダリルはリックが爪切りを持っていることを知っていた。いつだか彼がシェーンに貸していたのを覚えていたから。
それなのにわざわざエメリーボードを持って、しかも自らダリルの手を取った。理由はダリルの知るところではない。もしかしたら、爪切り自体無くしてしまって、もうリックの手元にはないのかもしれない。けれど、こうやって慎重に扱われていることが、ダリルには重要だった。
「…こないだも割れてたな」
「何?」
「爪だよ。割れやすくなってるんじゃないのか」
リックに言われてもダリルはあまりピンとこなかった。リックの言っている、こないだ、それがまったく記憶になかった。
リックが言うのだから間違いなく自分の爪は割れていたんだろう、とダリルは思って、そして本人が気にもしていないことを覚えているリックの記憶力に驚く。
別にリックの記憶力が並はずれているわけではなく、本当はダリルのことだから覚えていたのだけれど、そんなことにダリルは気付かなかった。
「どうかな。でも別に爪くらい割れたって気にしない」
「君はそうだろうな」
「…?なんか含みのある言い方だな」
「君は気にしないだろうけど、俺は気になる」
何気ない一言だったにも関わらず、ダリルの心臓が飛び跳ねる。
いつもより早く鼓動する心臓の音が耳触りなほど鼓膜に響き、ダリルは顔を赤くさせた。ティーンエイジャーだってこの程度のことで動揺したりしない、と自分を叱咤したが、一度赤くなってしまった頬は中々もとにはもどってくれない。
(くそ、今顔を上げるなよ…)
ダリルが祈る。途端、ダリルの願いなど知ったことかと嘲笑うかのように、リックがゆっくりと顔を上げた。
リックは自分で整えたダリルの爪先にキスし、眉尻を下げ、困ったように笑う。それはリックが照れた時にする笑い方だ。
「終わったよ」
リックのキスに驚いたダリルは、一体何が終わったのかすぐに判断できなかった。
離された右手を彷徨わせて、それからやっと爪の手入れが終わったとリックが言ったことに気付く。ダリルはしどろもどろに礼を言って、立ち上がった。
急いでこの場から離れないと恥ずかしさでどうにかなりそうな気がしたのだ。けれど。
「ダリル」
「な、何だよ…」
「君さえ良ければ、左手も」
リックは初めにダリルに座るよう指示した時と同じ声色で名前を呼び、手を差し出す。
ダリルの左手の爪はまだ伸びたままだ。リックと同じ長さの爪を見て、ダリルは再び椅子に座った。そして、差し出された手に左手を重ねる。何度も言うようだけれど、優しげなリックの言葉にダリルはあまり逆らえないのだった。
リックは微笑んで、エメリーボードをダリルの左手の親指の爪にあてた。
(あと5本か)
ダリルは穏やかな日差しを浴びながら、リックの優しい手つきを眺める。
彼の長い睫や、綺麗な鼻筋などを観察して、それから、自分の前ではほとんど真一文字に引き結ばれた唇が、今は僅かに緩んでいるのを見つけた。
ダリルはたまらなくなって、リックの額に唇を押し当てる。先程彼がしたのと同じくらい微かな接触だったけれど、リックが顔を上げ、視線が絡んだ二人はどちらともなく唇を寄せた。
(この気持ちをなんと呼ぶんだろうか)
触れた唇が熱かった。その熱をなんと名付ければよかったのか、ダリルにはわからない。
ただ、左手に触れたエメリーボードの冷たさが心地良かった。
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