あいしてる、だなんて。
こんな荒廃しきった世界でその言葉は妙に陳腐に聞こえる。そう思うのは僕だけなんだろうか。
少し前、明確に言うなら死体が歩くなんて奇天烈な現象が始まる前なら、その言葉はまさに魔法の言葉だった。あいしてる。その何気ない単語ひとつで、何をしたって許される。
例えば人を殺したとしたって、その人を愛していたのだ、と告げれば理解はしてもらえないかもしれないけど、同情はしてくれるはずだ。
それは世界が輝いていて、愛すべきもので溢れていたからだ。人は愛に寛容でいて、貪欲に出来ている。
あいしてる。それは僕らの使えるたったひとつの魔法だった。
あいしてる の魔法
「吊り橋効果ってあるじゃないか。あれが本当なら、今この中で何組のカップルが出来てるんだろうね」
「こんな時に言う台詞かよ」
ダリルはすごく拗ねた顔をしていた。可愛いな。
僕は笑って、今だからだよ、と言った。そう今。君が僕にあいしていると言った今でないと駄目なんだよ。
ダリルは僕のことを愛しているらしい。彼がそう言った。愛してると。人種差別の塊みたいな兄を持ち、僕のことをいまだに中国人だと言う彼が!
「ダリル、君の言ってることも、それと同じだよ。きっとね」
僕はやんわりと笑う。彼を傷付ける言葉をわざと選んでおきながら、彼が傷つかないような顔を作った。
やはり、けれど、どう表現するべきかわからないけど、兎に角、彼はひどく傷ついたような顔をした。彼の綺麗な瞳が水の膜を張るのがわかる。
嗚呼ダリル、君はどうしてそんなに泣き虫なのかな。ぐす、と鼻を啜る音と一緒に、違う、と彼が言ったのが聞こえた。
「なんでお前が俺の気持ちを決めつけるんだ」
だって君は人種差別主義者だ。マールほどとは言わないけれど、確かに君はそうだろう?
そんな君が僕を愛してるだなんて、僕が信じるとでも思うの。こんな状況でもない限り君は僕を愛してるなんて言わないし、こんな状況じゃなければ、むしろ肌の色を貶すだろう。
「……小僧」
彼が僕を呼ぶ。涙を拭った彼の瞳はやはりまだ濡れていた。綺麗だ。
僕は黙って首を横に振った。ダリルはそれ以上言葉を重ねようとはせず立ち去った。僕はそれを見て、静かに泣いた。
ダリルが怪我をして帰ってきた。
怪我をして、そんな状態で40マイルも歩いて、ふらふらになって、それでもダリルは僕らのもとへ帰ってきた。
「…ダリル」
今は眠っている彼のベッドの横に腰を下ろし、彼の顔を覗き込む。憔悴しきった顔をしていた。
彼のこんな様子は見たことがなかった。いつも偉そうにして、自信たっぷりで、強くて、泣き虫で、そんなのがダリルだと思っていたから。
彼が人間である以上、疲れもするし、怪我もするのだ。僕は今回それを思い知った。
彼が僕と何ら変わりない生き物であると知った僕は急に恐ろしくなって、ダリル、ともう一度彼を呼んだ。そうしなければ僕は何かに飲み込まれてしまいそうだった。
「……どうした、小僧」
僕の声か、あるいは気配かに気付いたダリルが目を開けた。掠れた声で僕を呼びながら、彼の目はいつもと変わらない力強さだった。
僕はシーツから覗く彼の手を握って、何度も彼の名を呼んだ。伝えられることなどなかった。彼が生きていることがまるで奇跡のようで、彼がいつか帰ってこなくなると思ったら心が押しつぶされるようだったから。
「グレン」
ダリルが、僕を呼んだ。僕の名前を。
僕ははっとして顔を上げ、彼の顔を見つめた。彼はとても穏やかな顔をして笑った。
「あいしてる」
彼のくちびるがそう象った。
ぶわ、と感情が溢れてくるのを僕は止められなかった。
愛の言葉を囁いた彼の口を僕は塞いで、僕の想いが伝わるように必死に祈った。かさついたダリルのくちびるは僕の唾液で濡れ、舌を絡ませて十分に口内を味わった後には、てらてらと光っていた。
「吊り橋効果か?」
「違うよ。これは、違う。君が僕に魔法をかけたんだ」
なくなってしまったと思っていたのに、君の言葉は強く強く僕を捕まえてしまった。
こんな荒廃しきった世界で、君の言葉は唯一の輝きにさえ思える。
それはまるで魔法だった。あいしてる。あの頃僕らが使えた唯一の魔法は、今でも君の中に残っていたんだ。
PR