(―――あ、まずい)
向かいに座った恋人兼旅の同行者の顔色が悪くなったのを見て、クレイは己の失敗をはっきりと確信した。
先程までやんわりと拒否していた女性にはっきりと断りを入れる。彼女は残念そうだったが、異性を誘いなれているようで、セクシーな流し目を寄越してからクレイたちの席を離れた。
クレイは目の前に座る恋人の様子を見て、彼にかける言葉を慎重に選ぶことを義務づけられる。こういう状態の彼は、必要以上に「介護」してやらなければならないことを、クレイは知っていた。これ以上ないほど、身をもって。
「……トム」
静かに名前を呼べば、彼はびくりと体を震わせた。
困ったようにはにかんで、今まで一切手をつけていなかった料理にやっと手を伸ばす。誤魔化す為の仕草だった。けれど、嘘をつきなれていないトムの手が震えていたことをクレイは見逃さない。
「大丈夫だよ、トム。彼女とは何でもない」
今しがた話しかけられて、誘われて、断った。それだけの関係であるにも関わらず、トムは「捨てられるかもしれない」と不安そうに目を揺らす。
たったあれだけでこれほど疑心を抱くトム。人付き合いが苦手というレベルではない彼を、彼がこうなってしまった過去を、クレイはひどく哀しく思う。
彼はクレイと出会うまでの十数年を、トラウマと罪だけで生きてきた。誰からも拒絶され、受け入れてもらえなかった脆弱な心は、今もトム自身を苦しめている。
そんな彼の心情を嫌というほど理解し、またその心が軋んだ時に起こす悲劇を防ぐために、クレイはトムの手を握って言葉を重ねた。
「わかる?僕は君の側にいるよ。愛してる」
クレイの言葉にもう一度トムが体を震わせる。先程は曖昧に笑っただけだが、今度は戸惑いがちにもクレイの目を見返した。
汗ばんだトムの手がクレイに緊張を伝える。それはクレイが柔らかに微笑んだのを見て、ゆっくりと解かれた。
次の日の朝、クレイが目を覚ますとベットにトムの姿はなかった。
瞬時に昨晩の女性のことが頭を過り、畜生、とクレイは吐き捨ててベットから飛び起きる。
寝ぼけている時間もなく、僅かに聞こえる水音を辿ってバスルームへ向かったクレイは、そこにトムの姿を見つけて一先ず安堵した。
トムは酷く憔悴した様子でぐったりとバスタブに転がっている。おまけに服は赤黒く染まっており、狭いバスルームに充満した臭いからそれが血だとわかった。
それでもクレイが慌てないのは、それがトムの血ではないと知っているからだ。
「トム、トム…。起きて、早く町を出なくちゃ」
トムの体を揺さぶる。彼が覚醒するのに少しの時間を要したが、クレイは辛抱強く彼に声をかけ続けた。
トムが目を開けるとクレイは彼を抱きしめ、大丈夫だ、と告げる。トムは泣き出し、何度も深く謝った。自分が何をしたのか、記憶に残っていない彼は、それでもすべてを理解したのだ。
―――トムは二重人格の社会病質者だ。
彼が原因で起こってしまった炭鉱での爆発事件、その唯一の生存者ハリー・ヴォーゲンがトムを恨み、多くの人を殺した。トムはハリーに殺されかけたが寸での所で町の警官に助けられ、事無きを得て事件も終わった。けれど、トムの中では事件は終わっていなかった。
ハリーはトムの中で、新しい人格として生きていたのだ。
彼はそれから七年もの間、故郷を離れた精神病院に入っていたが、残虐な殺人者の人格は消えることなく、むしろより強大なものになってしまった。
結局、十年の歳月を経て故郷に戻ったトムとハリーは、再び故郷を恐怖の底へ叩き落とした。
そして、彼はその事件の容疑者として追い詰められ、生き埋めになって死んだ。彼と共に生き埋めになりかけた、もとは彼の友人がそう証言した。
しかし彼は生きていて、しかも彼はその時になってようやく、彼は己の中にハリーという人格が住み着いていることを知ったのだった。
結果、つまり彼が戸籍上の死と引き換えに手に入れたのは、すべての真実だった。
「大丈夫、大丈夫だから…。心配ないよ、トム」
クレイはそう言ってトムを慰めた。そう言いながら、何が大丈夫なのかまったくわからないとも思うクレイは、それでも泣きじゃくるトムを慰め続ける。
本来ならば病院に入れるべきなのだ。トムは専門の医者でなくともわかるほどに病んでいて、その精神は殺人を厭わないほどに異常だ。けれど、クレイにはそれが出来なかった。
トムと行動するようになって半年が経つ。その間に彼が理解したのは、トムが殺人を望んでいないこと、それから、ハリーの殺人衝動は「孤独」からくるものだということだった。
ひとりになることや、他人に拒絶されることを、トムは嫌う。仕方がないことだと諦めたふりをしているが、その孤独が頂点に達した時、ハリーは現れる。
今日のこの状況もそうだ。昨晩トムは明らかに不安を見せた。今現在最も心を許しているクレイが、自分よりも見知らぬ女を選ぶのではないか、と。
そんな、「孤独」を何よりも恐れているトムを、自分のいない精神病院に入れればどうなるか――クレイは容易に想像することが出来た。
(彼を愛してるんだ)
そしてクレイは、こんなどうしようもない異常者を、誰よりも愛していた。
昨晩よりもクレイは必死になって伝える。彼を抱きしめ、愛している、と耳元で囁くと、何故か涙が零れた。
トムは彼の告白を聞いても、ごめんなさい、としか返さなかった。トムはいつだって、どんなにクレイが切に言い聞かせても、結局のところ彼の愛を信じていない。
「………。さぁ、トム、町を出よう。まず着替えて、食べ物を買って。車は僕が運転するから、隣で眠ればいい」
嗚咽が随分少なくなってから、クレイは至極ゆったりと言った。
トムはこくこくと肯いたが、泣くのは止めなかった。彼の潤んだヘーゼルグリーンの瞳を縁取る長い睫が涙で濡れている様は、暴力的な面など欠片もなく、繊細で儚い印象だけを受ける。
次から次へと流れる涙をクレイは舐めとって、額、瞼、頬、そして唇にキスをした。愛しくてやまない彼は、そうしてやっと微笑んだ。
僕は殺人鬼を愛する。
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